「ユニコーンの日(上・下) 」 福井晴敏(著) 読んだ。
文庫は、初回こそ上下巻2冊同時発売だったが、その後は奇数月に1冊ずつ発刊されている。(現在は「赤い彗星」、「パラオ攻略戦」までの4巻までが発刊)。
この作品の場合、原作を読まずに純粋にアニメを愉しむか、それとも原作を頭に入れた上で背景や心情を補完しつつアニメ化を愉しむかをずっと悩んでした。基本的に映像化の決まった作品の原作は、映像化された作品を観るまで読まないようにしている私だ。その方が映像作品を愉しめるから。結局、読む時間が作れなかったことからも原作を読まないままアニメの1巻を見ることになったが、それでもまだ迷っていた私だった。
舞台背景は「ファースト」「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」を抑えていれば原作を読んでいなくてもそれなりに付いていける内容と思われた。ヒロインには思い当たるものがあるし。それでいて、埋められていなかった過去の歴史や作品の合間にあたる空白の期間、そして未来が確定されていく物語がこの「ユニコーン」だから、何もかもが新鮮に感じられる。よってそうした部分を読み解くには、やはりワザと謎めいた作りで引っ張るようなアニメの見せ方では足りないと感じてしまう。アニメの冒頭に登場している若者が次の瞬間に爺さんになっている理由を事実として納得するしかないのがアニメだと思う。そこで「知りたい」と思ったらやはり原作を読むしかないわけだ。で、問題なのが結局何時小説を読んで補完するのが最善か、となる。
悩んだ結果、「アニメが完結後に原作を一気読み」がずっと有力だったが、アニメの完結には2-3年を要することからも、文庫本の発売に合わせて小説を読み進める方向へ切り替えることに決めた。そこで早速発刊済みの4冊を購入。あっという間にアニメ第1巻にあたる「ユニコーンの日」を読み終えてしまった。
なんだかね、いろいろ悩んでも意味なかったかなーという印象。「∀ガンダム」のノベライズ『月は繭 地には果実』の時もそうだったけれど、結構違うんだよね。やっぱりアニメはアニメ用の見せ方なのだと確信するほどに違う構成。アニメの尺に収めるために設定そのものを大きく変更しているのも明確に分かる。例えば(”夜のサンライズアワー”に浪川大輔さんがゲスト登場した時にぼやいていたけれど)ちゃんと1巻に登場していながら全くセリフのなかったリディ・マーセナス少尉。アニメでは複数の視点(主人公)を設けることが困難なことから、とにかく初回は主人公のキャラを立たせるためにひたすら主人公中心の構成になるのは当然としても、一応小説ではリディがルーキーであること、家庭事情が複雑なこと(冒頭で演説していた大統領の子孫で、現在も有力政治家の家系のおぼっちゃん)などがきちんと説明されている。(逆を言えば、どうせおさまらないのだからセリフを全く作らないことで「アレは誰だ?」という興味をそそる効果を狙えるといった意図があったかもしれないが)。なんであれ、これらは小説を読んでみてはじめて分かること。大筋は同じでもここまで違うとどちらが先でも気にならないように思えた。
ただ、やはり戦闘シーンは映像あってのものかと。サイコミュだのファンネルだの、仕組みこそ「逆シャア」で理解しているから活字でもソコソコイメージ出来るが、やはりこれは百聞は一見に如かず。(重力・無重力状態における物理的な効果・反応・現象等については文章で書かれると理解しやすいが)。あと、オードリーの偽名ついて。原作にはアン王女と自分を重ねるオードリーのような描写があったと思うが、アニメでは映画の看板をチラと映すところが実に上手かった。この作品、アニメと原作がとても上手く融合していると感じた。
いろいろ総合するに、この作品は独自の世界観によるサーガであることからも、最低限の”知識”はどうしても必要で、シリーズを最大限に愉しむには「情報は多いに越したことがない」というのが私の結論といえそうだ。初めての衝撃をアニメで視るか、小説で感じるか、本当にそれだけの違いなんだよね、結局は。とにかく、どちらも楽しめるようにそれぞれの役割を生かして作られている、どちらも良くできた作品だと思った。
ユニコーンを起動し、デストロイモードに変化したところでアニメは終わっているが、その後クシャトリヤを撃退し、ネェル・アーガマに収容(連行)されるユニコーンというところまでが描かれていた小説。いよいよ”赤い彗星”の再来と言われるフル・フロンタルが登場する次巻。フル・フロンタルには池田秀一さんがキャスティングされいるし、そのつもりで小説を読むと余分に愉しめそうな気がしてくる。(アニメでの登場が待ち遠しい)。
大いに期待しつつ、読み進むことにしよう。
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