『モノノ怪』をみるなら『怪-ayakashi(化猫)』はみたほうが良さそうだ。
なんだかすっかりハマッてしまった。『のだめ』の時と同様、2週遅れでしか放送されないのが残念でならない。・・・と連日の『モノノ怪』話。
『怪-ayakashi(化猫)』をみて、オーディオコメンタリーで内輪話を聞きまくり、見どころ聞きどころを踏まえたうえで、再度『化猫』をじっくりとみて、そして『モノノ怪~座敷童子』を再び通しでみた。
やはり、見方が変化した。
『化猫』は、もともと「続編?」という反応を狙って作られていただけに、ほとんど設定の説明がされてはいなかったけれど、全編とおしてみれば、徐々に世界観が分ってくるし、それでOKな作品だった。しかし『モノノ怪』は正真正銘の続編シリーズ。”薬売り”の能力や人となり、物の怪退治の仕組み等の基礎知識が頭に入っているかいないかで、作品の受け取り方が微妙に違ってしまうことが分った。(実際、違っていたし)
実は、『海坊主』序章での加世の”薬売り”に対する表現に引っかかっていた私だった。『座敷童子』でも『海坊主』でも、”薬売り”はどうにも胡散臭く感じられ、本当は善人なのか悪人なのかイマイチわからなかった。他にも意味不明な事やモノがたくさんあった為、解釈に困っていた部分もあった。
”お札”の変化であり、”天秤さん”が天秤なことも、さらに突然傾く理由が全然分らなかったし、特に”退魔の剣”を抜くあたりはあっという間のことで、”薬売り”が一瞬だけ黄色に”変身”しているのには気がついても、逆にまるで意味不明だったし、”座敷童子”が最後に「うふっ」っと笑う瞬間のカットでは、左半分の”混合色”に意味があることを知らなかった為、単なる背景だと思い込んでいたりした。
それが、『化猫』では何もかもが見事に披露(説明ではない)されていて、”お札”は物の怪が近づいた時に変化するのモノであり(普通に結界を張るモノでもある)、”天秤さん”は物の怪との距離を計る道具であり(式神風のモノでもあるかな?)、”薬売り”は謎めいた人物ではあるけれど、決して不気味なキャラではないこと(”助けてくれた人・心ある良き人”が加世の評価で、実は結構おちゃめさんかもしれない?)、確かに”退魔の剣”を使う時に”変身”する”薬売り”であり(一連のシークエンスを見れば誰でも納得)、背景と間違った”混合色”は”退魔の剣”の光(実体)だったのだと、アレはまさに斬られる瞬間だったのだと理解できた。
「意味を知れば、見方が変わり、理解度が深まる。」それは当たり前の事なのだけど、”座敷童”が笑う場面は随分と違って見えた。初回では涙は出なかったけれど、「何故笑ったのか」を知り、「笑ったこと」に『化猫』の時と同様の想いが込み上げてきて泣けた。
「真」とは、事の有様。「理」とは、心の有様。そして、もののけを為すのは人の因果と縁。・・・それが『モノノ怪』での世界観。
「人の理」と「物の怪の理」。果たしてどちらの「道理」や「正義」が”人道”に近いのか?何故”物の怪”が出現するのか?どれもこれも「ムムム」なのだけど、それでも”物の怪”は”物の怪”。人の世にあってはならないモノ、人に害するモノとして斬らねばならない”薬売り”だということ。
・・ということで、この辺にドーッと感情移入してしまうところがポイントかな。
オーディオコメンタリーでは、「そこがしっかりと描けなければ、ただの”モンスター”ものでしかない。」と、作品の方向性を示されていた監督でもあり、確かに見事な表現をされていると、拍手を贈りたいと思う。
この作品での”物の怪”は、京極夏彦氏の作品に登場する”妖怪”とは基本的にはまったく違い、対極なのかもしれないけれど、根本的な意味においては通じる部分があるようにも感じられ、やっぱりこういう作品に惹かれる私だと、改めて趣味嗜好には逆らえないものだと痛感している。そして、
『モノノ怪』をみるなら『怪-ayakashi(化猫)』はみたほうが良さそうだ。・・と、以上のことから、しつこくも、再度のオススメ記事を書く私なのだった。
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